今月の法話

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今月の法話一覧

2020.01.01
老木に老醜なし



 また一つ歳をとりました。最近は年を経る毎に、自分の肉体や知能の衰えを実感することが多くなりました。何しろ若い頃は思いも掛けなかったようなことが、自分の身に起きて、ガッカリすることが屡々あるのです。

 1センチにも満たない段差につまづいて転びかけたり、足袋や靴下を立ったまま履けなくなったり、わずかな階段の昇降で息切れがしたり、それほどハードな運動でもないのに、怪我を負ったり、玄関の照明を点けっぱなしのままや、部屋の暖房を消し忘れて寝てしまったり、夜の寝付きが極端に悪くなったり、数え上げると我ながら嫌気がさすほどです。

 何より住職として戸惑うのは、お経を誦んでいて、若い頃のように息が長く続かなくなり、こんな筈ではなかったと思ったり、人に接して話すことが何かと多い立場なのに、「このことを表現するのに相応しい良い言葉があった筈だが……」と思いつつなかなか浮かんでこなくて、頭を掻きむしりたくなるようなことがよくあるのです。

 そんな時は「まあ歳だから」と諦めるようにはしているのですが……。歳をとると次第に減っていくものーー気力・体力・記憶力・寿命とはよく言ったものです。

 でもこんな言葉に出会って、自分を慰めたり、救われたりもしています。

 『老木に老醜なし』……木は樹齢を経れば経るほど、味わいがあり、醜さをさらすものなどない、という諺です。

 さて私たちは、樹木のような老い方が出来ているでしょうか。私自身のことを前述したとおり、老いてくると、物忘れがひどくなり、体も言うことをきかず、自分で自分が情けなくなります。また社会的にも、老いたる者を敬うという気風は消えつつあり、むしろ疎ましい存在とされてしまうような風潮も見られます。無論人間の中にも、歳をとればとるほど、人格が磨かれ、徳を増してくるという、仏教の目標に近い人もいます。何十年もかけて、年輪を重ねてきた老木が、一夜の雪の重さに枝を折ったとしても、それは私たちの目には、趣のある「あはれ」とこそ映れ、醜さなどを感じる人はいないはずです。恐らくは老木の、自然界の中で、ありのままに順応する姿に、美しさを感じるからなのでしょう。

 人間に置き換えれば、年輪を積み重ね、我執(とらわれ)のなくなった姿が、『老木に老醜なし』と言うことなのです。また若い人に対しては、苗木の頃より懸命に生きたればこそ、老木となった時、美しい枯れ方が出来るのだと、心して精進を続けるよう呼びかけたいものです。

 そして私を含む後期高齢者の皆さん、己の信じる道を着実に歩み続け、確かな年輪を重ねてきた「老い」こそが美しいのだと思い直して、お迎えが来るまで、楽しく、元気に、しぶとく、堂々と生きていきましょう。

 


2019.12.01
百舌の速贄(モズのはやにえ)



 この季節、晴れ間に歩いていると、道端の樹木の枯れ枝や、人家の生け垣の枝の先に、小さな蛙やトカゲ、昆虫などの死骸が引っ掛かっているのを見かけることが、偶にあります。これは野鳥のモズが、捕らえた獲物を樹木の尖った枝や、有刺鉄線のとげなど鋭利な物に突き刺しておき、餌が不足する冬に向かって保存しておくのだそうで、これを「モズのはやにえ」と言います。モズは肉食で、獲物は昆虫やトカゲ、蛙、ミミズ、小鳥、ネズミまで多様な小動物が含まれ、これらが冬の間食べられるための「貯食」と言われているのです。

 中には食べ残して干からびてしまうものもあるそうですが、野鳥は野鳥なりに、厳しい冬を乗り切って生きるための知恵と術を、本能的に持っていることを考えると、モズの命も、それを支える昆虫や小動物の命も、愛おしく尊いものに思われます。

 こうした自然界の事象に触れて何より強く感じるのは、折々の風景の変化を目にしたり、自然の豊かさを享受することの出来る、この日本の四季の移ろいが、日本人の古来からの精神文化を創りあげてきた大きな要因であろうということです。今更ながら、明確な四季のある日本の自然が有り難く思えます。

 折も折、先日の新聞の読者欄に、心温まる一文が載っていたので紹介します。三重県の日高愛美さん(12歳)という小学生の投稿で『モズさんごめんね、もうしません』という題で、以下原文のままです。

 『ある朝、玄関の横の植木鉢の枝に、変なものが引っ掛かっていました。よく見ると、頭を枝に串刺しにされたトカゲの死体です。こんなイタズラは近所のJ君に違いない。お返しに家の前に置いてやろうか、と思いましたが、お父さんが捨ててしまいました。翌日、お母さんが新聞記事を見て言いました。あれはモズの仕業じゃない? 「はやにえ」という冬に備える保存食だそうです。ネットで検索したら、はやにえの写真がたくさん出てきました。うちのと似て、気持ち悪いです。ですが、せっかく冬を越すためにと一生懸命エサをとり、枝に引っかけたのです。知らなかったとはいえ、捨ててしまってごめんなさい。今度はちゃんと残しておくので、また来てくださいね。そしてJ君、疑ってゴメンね』

 愛美さんの素直で優しく、柔軟な心に触れて、こちらもホッコリと温かな気持ちにさせられました。今、大人の世界では、隠蔽、改竄、廃棄、嘘、ごまかし、はぐらかし等々、気の晴れないことばかり続きますが、新しい年に向かって、改めて愛美さんのような、優しく素直で温かい心に学び直したいものです。

 12月8日はお釈迦様がお悟りを得た日……そのお悟りとは「自然界のすべての命の一つ一つが、絶対無二の尊いものである」ということでした。深く思いを致したいと思います。


2019.11.02
裏を見せ 表を見せて 散るもみじ



 『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』

 日本でもっとも人気のある禅宗のお坊さんと言えば、良寛さんと一休さん。その良寛さんの「辞世」と言われているのがこの句です。

 良寛さんは、とても多くの人々に親しまれたお坊さんでした。特に子供を愛し、「子供の純真な心こそが真の仏の心」といって子供達と一緒に遊び、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら酒を好み、村人と頻繁に杯を交わされたそうです。良寛さんは、老若男女や貧富などによって人を分け隔てすることなく、誰とでも親しく温かい気持ちで触れ合われたので、その人柄に接した人は皆、穏やかに和んだと言われています。

 良寛さんが晩年、和歌のやりとりを通じ心温まる交流を続けられた、心の恋人とも言われた弟子の「貞心尼」が、高齢となり死期の迫ってきた良寛さんのもとに駆けつけると、良寛さんは辛い体を起こされ、貞心尼の手を取り「いついつと まちにし人は きたりけり いまはあいみて 何か思わん」と詠まれました。そして最後に貞心尼の耳元で、「裏を見せ 表を見せて ちるもみじ」とつぶやかれお亡くなりになったそうです。

 この句には、「あなたには自分の悪い面も良い面もすべてさらけ出しました。その上であなたは私のすべてを受け止めてくれました。そんなあなたに看取られながら旅立つことが出来て幸せです」という貞心尼に対する深い愛情と感謝の念が込められているように思います。

 そしてこの句は、晩秋から冬にかけての寂しげな風情を、人生になぞらえており、単なる俳句と言うよりも、むしろ日本人が大切にしてきた死生観が見て取れて、人間の生きる姿を句に託したものとして味わうべきと思います。

 「人間は棺に入ってはじめて価値が定まる」などと言います。つまり、いよいよ死ぬ時を迎えると、これまで行ってきたことの洗いざらいが見えてきて、その人がどのくらいの人であったか解るというわけです。

 良寛さんの言葉を借りれば、「仏様は何でもかんでもお見通し、いつでもどこでも見てござる。だからこそ裏表のない人生を生きてゆこう。良いも悪いもすべてさらけ出して、仏様にすべてをお預けして安心して生きてゆこう。この生き方こそが、何も怖れることのない、心安らかな世界なのだ」と言うことでしょう。

そのことに気づかせてくれるのが『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』……よ~く味わいたいものです。

 


2019.10.01
実りの秋を健康に



 秋の爽やかな空の下、全国各地で運動会や健康に関する行事が、盛んのようです。テレビをつければ、陸上競技や、ラグビー、サッカー、ゴルフ、野球等々、国内外の大きな大会が頻繁に中継され、元来スポーツ好きの私は、我を忘れて見入ってしまいます。

 ただ残念なことに、加齢とともに自分でスポーツに興じることは、めっきり少なくなりました。せめて健康維持のための軽運動くらいはしなければと思いつつ、若い頃は想像だにしなかった、巨大な中華まんじゅうの如きふくれた腹をさすりながら、ため息をつくばかりです。

 実は仏教でも、健康や身体について、様々に示してくれています。あるお経の中に次のような文言があります。

 『見よ、飾られたその骸(しかばね)を。それは苦痛の集まり。地・水・火・風の四元素によって仮に造り成されたもので、病多く、人はしばしば、それを愛すべきものと考えてはいるが、実は堅固さも安定もない。この肉体は、老い朽ちるもの。病の巣窟(すみか)にして壊れやすい。腐敗した身は破れ、生は必ず死に終わるのだ。美しく飾られた王の車も朽ちるように、身体もまた老いに至る。されど、よき人の法は、老いに至ることはない。』

 どうも私たちの肉体それ自体は、仏教では、汚れた感心できるものではないと言っているようです。要は、自然に自分自身の老いを受け入れ、心には法を携えることが、健康につながると言っているのです。

 ここに言う「法」は、すべての物や事象は移りゆくという「諸行無常」の理が、大きな前提になっているものです。しかし、実践においては、各人の各人による自由な健康法があって然るべきもの、と察せられます。
 大きく深呼吸をすると、秋の清々しい空気が胸にしみ、身体を駆け抜けるような気すらします。表へ出て、あまり身体をいじめ過ぎるでもなく、甘やかすでもない、ほどほどの運動をしてみてはいかがでしょう。その「ほどほど」というのも、実は仏教の心です。もっともこんな戯れ歌もありますが……

 『ほどほどが 良いぞと人は 言うけれど そのほどほどの ほどがわからず』……せっかくの実りの秋、収穫を喜び感謝しつつ、のんびり行き(生き)ましょう!!

 


2019.09.01
月と兎


 酷暑続きの夏が過ぎて、朝夕の冷気が心地よく、秋の虫の声も賑やかに聞こえてきます。この季節は、天空に煌々と輝く満月の凛とした美しさが特に印象的です。古来より「お天道様」「お星様」「お月様」などと、天体に「御」と「様」の敬称を付けて言い習わしてきたのは、恐らく世界中で日本民族だけでしょう。これは、天体に対する畏敬の念に、俳句や短歌に代表される、日本民族特有の詩心が重なり合ったものと思われます。

 ところで、お月様に兎がいるという話は、日本人なら誰でも聞かされてきたことですが、この話が仏教の説話の中にあるということはご存知でしょうか。この伝説は、もともとはインドの「ジャータカ」という仏教説話に見られ、日本に渡来して『今昔物語』などに収録されて語られてきたのです。その内容は次のようなものです。

 昔、猿、狐、兎の三匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出会った。三匹は老人を助けようと考えた。猿は山から果物や木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食べさせた。しかし兎だけは、木にも登れず、川にも入れず、どんなに苦労しても何も採ってくることが出来なかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙げ句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中に飛び込んだ。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。

 慈悲行についてのお話しをもう一つ……。

 山形県高畠町出身の童話作家、浜田廣介の作品の中に、『泣いた赤鬼』という有名な童話があります。お話の筋を要約すると……

 赤鬼が村人達と仲良くなりたくて、自分の家に招くのですが、村人は警戒心を解きません。友達の青鬼が、「なにか一つの めぼしいことを やりとげるには きっと どこかで いたいおもいか そんを しなくちゃ ならないさ」と言って、人里でわざと大暴れし、赤鬼にきつくいさめられ叱られることで、赤鬼が人々に受け入れられるように図ってやったのです。そして赤鬼の友だと悟られないように姿を消しました。

 友を思いやるが故に、その友との関係を絶つというところが悲しいのですが、この話も、自分の身を捨てて他に尽くす慈悲行の尊さを教えるものと言って良いでしょう。爽やかな秋彼岸のこの季節、月を眺めながら、子供達にこんな話をしてあげたらいかがでしょうか。

 

 


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