住職の法話

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住職の法話一覧

2017.08.01
お盆の季節に

 暑い日が続きますがお元気ですか?  光陰矢の如し……ついこの間まで爽やかな新緑を楽しんでいたら、早いものでもうお盆の季節です。

 仏教の教えをやさしい言葉で沢山の詩に紡いでいることで有名な、坂村真民さんは、「お盆」という詩を次のように歌われています。

  亡くなった人たちに会える日を  作って下さった  釈迦牟尼世尊に  

  心からお礼を申し上げよう

  そして亡くなった人たちが  喜んで来て下さる  楽しいお盆にしよう

  せっかく来て下さった方々を 悲しませたり  落胆させたり

  もう来ないことにしようなどと  思わせたりしない  心あたたかいお盆にしよう

  迎え火のうれしさ  送り火のさびしさ  そうした人間本然の心にかえって

  守られて生きるありがたさを知ろう

 素朴な言葉の端々に、亡き人を偲ぶ心の暖かさが読み取れる、ほのぼのとした素晴らしい歌です。死というものを、全ての終わりと考えずに、仏の国、清らかな世界へ往って生まれ変わるのだというお釈迦様の教えがあるからこそ、亡き人の訪れを、今ここに生きている私たちの感謝と重ね合わせて喜び合うのが、お盆という日本独特の仏教行事なのです。

 終戦の日とお盆が重なるせっかくのこの季節、亡き人を偲びながら、今生きていることの有り難さや、平和の尊さを、家族で語り合い確かめ合うひとときをお持ちになってみてはいかがでしょう。

 亡き人のためにも、生ある家族や隣人へも、思いやりの心を施し合う、ほのぼのとしたお盆を過ごしたいものです。

 皆さん、お体大切に。


2017.07.01
泥中の蓮

 初夏から真夏にかけてのこの時節、東北各地の寺々では紫陽花(アジサイ)や蓮の華が今を盛りと咲き誇っています。朝露に濡れた紫陽花の豪華で瑞々しい姿や、清廉で凛とした趣のある蓮の華を目にすると、何となく落ち着いた清々しい気分にさせられます。

 以前ある人から「仏教で蓮の華や蓮の葉が、至る所で使われているのは何か訳があるのですか」と聞かれたことがあります。

 そう言えば仏様や菩薩様の御像は、たいてい蓮華を型どった台の上に安置されていますし、それら仏像や菩薩像の中には、蓮華を手にしているものも数多く見られます。

 古来インドでは、蓮は宗教的に清浄な物の代表とされてきました。それは、蓮の茎や葉には水がくっつかないことからきているようです。サトイモと同様、水を葉にかけても、葉は水をはじいて、水玉となって転がり落ちてしまいます。また蓮が生えるところは、底のあまり深くない泥沼です。

 こうした水や泥を、私たちが普段持っている執着と迷いの心や煩悩、あるいは社会の汚れた部分の喩えとすると、蓮……蓮華というのは、そういったものに一切汚されることのない、極めて清浄なものであることになります。言わば蓮は清らかな仏様の、悟りの象徴なのです。

 「泥中の蓮」という言葉がありますが、これはどんなに良くない環境の中にあっても、それに汚されることがないことを表しています。私たち仏教徒にとって、いつも「汚されまい、けがされまい」と念じて精進することが大切なのだということを、この言葉は教えてくれているのです。汚い泥の中に咲くからこそ、蓮の華の清らかさが一層引き立って見えるというわけです。

 ついでに付け加えますと、人間が死んで後、極楽浄土に往生するときは、特別大きな蓮華の中に生まれると言われており、これを「一蓮托生」と言います。この頃は、悪人どもが結託して何か悪いことをしようとする時に使われることの方が多いようですが、本当の意味での「一蓮托生」を、今の現実の社会の中に実現することこそ、私たち仏教徒の願いなのです。

 


2017.06.01
「まちぼうけ」も良いかも

 中国の宋の時代、一人の農夫がある日、畑を耕していると兎が跳び出してきて、畑の中の切り株にぶつかり、首の骨を折って死んだ。農夫は労せずして兎を一羽せしめたので、それからというもの、彼は農夫を廃業して「兎待ち」に専念し、毎日切り株を見張り続けた。

 当時の中国の思想家「韓非」が著した法律書『韓非子(かんぴし)』に出てくる有名な話です。この話から「株を守りて兎を待つ」という言葉が作られました。実はこの話を元に北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡『待ちぼうけ』が作られています。

 もちろんこの話は、一人の農夫を引き合いにして、努力もしないで結果ばかり追い求めることの愚かさを嘲笑したものです。

  しかしこれとはほぼ反対の意味の言葉として、禅宗の初祖である菩提達磨(いわゆるダルマ様)は「迷ふときは、人、法を追い、悟るときは、法、人を追う」と言っています。人間が迷っているときは、人間のほうが法(真理)を追いかけている。しかし悟りを得た状態では、その法(真理)のほうが人間を追いかけてくるのだ……といった意味です。真理という兎を追いかけまわす状態が迷いで、兎が人間を追いかけてくる状態が悟りなのです。だとすれば、株を守りて兎を待つのもあながち悪くはないわけです。

 我が曹洞宗の開祖道元禅師様も同じようなことを言っています。「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり」

 自分のほうから修行によって万法(宇宙の真理)に近づき悟ろうとするのが迷いである。悟りというものは、万法のほうから我々に近づいて悟らせてくれるものだ。そう言っているのです。

 実は私は「寝付き」が極端に悪くて困っています。床に入ってから眠りに就くまで二時間などということも珍しくありません。眠ろう眠ろうと思えば思うほど眠れなくなります。それで私は上の話から悟りました。眠りを追いかけないで、眠りのほうから眠らせてくれるまで待つしかないのだと。何かに迷っているときも同じ。迷いが自然に消えて無くなるまで、ジタバタしないで待つしかないと。

 そう考えると「まちぼうけ」もまんざら悪くありません。でも……床に入ったらすぐに眠りたぁ~い。

 

 

 

 


2017.05.01
緑の季節に

 若葉の繁る新緑の季節、安養寺の周辺も眩しいほどの緑に包まれています。

 そこで、こんな一文を紹介します。

 「若葉の緑をほめる人は多いけれど、冬枯れの樹木を緑に変える生命(いのち)の働きをほめる人は少ない。仏像を見る人はいても、真の仏の姿を見る人は少ない。」

 私たちは日々の生活で、物事の表面だけをとらえて、全て解ったような気になってはいないでしょうか。しかし、若葉がこんなにも緑に色冴えるのは、大自然の生命の恵み、言い換えれば、仏のなせる業の表れなのです。確かに私たちの信仰の鏡となってくれる仏像も大事ですが、真の意味での仏は、この大自然の中に、いつも私たちと一緒にいるのです。私たちの呼吸の一息一息が、大自然の営み、言い換えれば、仏のはからいの中に生かされているのです。

 お釈迦様はこのことを「山川草木悉皆成仏」、私たちの目や耳や肌に触れる大自然の営み全てが仏であると仰せになりました。また道元禅師は「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えて冷しかりけり」とお詠みになっています。
 日常の生活の中で、大自然の生命の恵み、すなわち仏の存在を通して、物事の真実の価値を見つめるトレーニングをしたならば、私たちの生活は、もっと豊かなものになると思うのです。

 そのトレーニングの一つを紹介しましょう。毎週木曜日午後九時のBS放送『五木寛之の百寺巡礼』をご覧になってみて下さい。小説家五木寛之先生の目を通して、かつての日本人の心の豊かさに改めて気付かせていただける、私の大好きな番組の一つです。


2017.04.01
お釈迦様のご誕生に思う

 陰暦四月八日、お釈迦様のお誕生日です。全国各地のお寺では花祭りと称してお祝いの法要を勤めます。この日がなければこの世界に「仏教」が無かったわけですから、仏教徒にとっての最も大切な日の一つと言ってよいでしょう。実はこの日、陰暦四月八日は必ず「大安」だということはご存知でしょうか?

 ところで、お釈迦様の教えはどのくらいあるのですか?と問う方がいますが、一口に八万四千の法門と言われるくらいですから、計り知れません。お釈迦様は三十五歳でお悟りをお開きになり、お亡くなりになる八十歳まで、多くの人々に教えをお説きになりましたが、その中の一つにこんな教えが説かれています。

 『過去を追わざれ。未来を願わざれ。およそ過ぎ去りしものは、すでに捨てられしものなり。』

 『また未来はいまだ到来せず。今の事柄を各々の処においてよく観察し、揺らぐことなく、また動ずることなく、その境地を増大せしめよ。ただ今日、まさに為すべきことを至心に為せ。だれか明日に死のあることを知ろう』

 つまり、いつまでも自分の過去に犯した過ちにかかずらわったり、たえず未来の夢ばかりを追いかけたりするのではなく、現在を正しく見つめ、自分の持ち場を見極めて、不動の覚悟で今を生きなさいとのお示しです。

 私たちはともすると、過去の小さな失敗をいつまでもくよくよとわだかまりとして心に留めておくことがあります。その挙げ句ノイローゼになる人さえ珍しくないそうです。

 反対に未だ実現しない夢を見続けて、足もとを忘れ、思わぬ失敗をする人も多くいます。

 『過去を追わざれ、未来を願わざれ』……厳しい言葉です。今日ただいま、今の今に徹して、充実した人生を歩みなさいとの一喝です。今、今、今の積み重ねが人生です。その先に、間違いなくやってくるものは………?

 


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