住職の法話

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住職の法話一覧

2018.01.01
『毛羽鱗介』観音様は音を観る

 当安養寺は、約1,170ほど前(西暦850年頃 平安時代)に、天台宗立石寺開山の慈覚大師の高弟心能律師が、山寺立石寺の麓に寺を築き、安養院としたのが始まりとされており、それより500年程の時を経て貞治2(1363)年に無著妙融禅師によって曹洞宗に改宗された寺です。その御因縁により安養寺では、無著妙融禅師を御開山様、宗派は違いますが心能律師を開基様としてお祀りし奉っております。

 立石寺御開山の慈覚大師は、円仁という名で今でも親しまれており、平泉の中尊寺を開山されたことでも有名な高僧です。

 この慈覚大師が中尊寺を開山する際に、開山の意図を記した長文の自筆の「願文」が今でも残っており、その中に有名な『毛羽鱗介(もううりんかい)』という言葉があります。その意味は、「この中尊寺を建立する真の目的は、この地上に生きる全ての生類(毛)、大空を飛び回る全ての鳥類(羽)、大海を泳ぐ全ての魚類(鱗)にいたるまで、即ちこの地球上に生きる全ての生類を救う(介)ことにある」と言っているのです。何と壮大で慈悲心に満ちた大師の御心と感嘆するばかりです。恐らく日本中の全ての仏教寺院は、大なり小なりこのような意図(願)により、建立されたものと思われます。

 ところで、人類はもとより全ての生類を救ってくださる菩薩様と言えば、観音様を思い起こす方が多いことでしょう。1月18日は「初観音」の日です。観音様の縁日は18日であり、正月18日はその年最初の縁日なので「初観音」というわけです。

 観音様は、正しくは観世音菩薩、略して観音菩薩といいます。「世間の人が救済の声を発する、その音声を観(み)て衆生を救われる菩薩」といった意味です。しかしおかしいと思われませんか? 音は聞くものであるのに、なぜ「聞音菩薩」「聴音菩薩」と言わずに「観音菩薩」というのでしょう。

 それは……仮に溺れている(いろんな意味で)人がいれば、観音様は溺れた人の口元を観ておられるのだと思うのです。その人が「南無観世音菩薩(観音様、助けて!)」と救助の声を発した瞬間、その口の動きを観て救済に駆けつけるのです。光の速さは音の速さの百万倍だそうです。だから、「助けて」の音が聞こえる前に、口元を観て、溺れた人間が救助を求めたその瞬間に行動を起こすのです。それで観音様は、音を聞かずに音を観ておられるのです。

 慈覚大師の中尊寺や立石寺をはじめ全国各地の寺院は、観音様のような慈悲心を持って全ての人々を救おうとのそれぞれの御開山様の誓願によるものであったろうと、改めて有り難く尊く感じられます。

 

 

 


2017.12.02
対立より融和を

 国の内外を問わず、政治、経済、外交、市民生活の中で何かと対立の目立った一年だったような気がします。それで以下のような話を思い出しました。

 徳川三代将軍家光公に朝鮮から生きた虎が献上されてきた。その披露の席上、将軍家光公が柳生宗矩に、あの虎の檻の中に入ってみろと命じた。

 柳生宗矩は新陰流の達人。初代将軍家康に仕え、秀忠・家光に剣術を指南した人物である。

 「かしこまりました」と、彼はその命令に従った。宗矩は刀を構えて檻の中に入る。そして、じりっ、じりっと虎に迫っていく。虎は唸り声を上げている。今にも飛びかからんとする形相である。しかし、宗矩の視線のほうが勝った。ついに虎は視線をそらせた。完全に宗矩の勝ちである。

 そのあとで、沢庵和尚が檻の中に入ることになった。家光の命令なのか、それとも和尚が言い出したのか、たぶん和尚が自分から入ると言ったのであろう。

 沢庵和尚は正しくは沢庵宗彭といい、臨済宗の禅僧。一般的には、幕府の政策に楯突いた紫衣事件で、山形県の上山に流され、その間大根の沢庵漬け(たくわえ漬けとも)を発明したことで有名である。彼は剣の妙理を極めており、禅の精神によって会得した剣の極意を教示した『不動智神妙録』という書を柳生宗矩に与えている。正保二年(1645)十二月十一日、七十三歳で寂した。

 この沢庵和尚は、何も持たずにゆったりと檻の中に入っていった。そして虎の前に進み、虎の頭を撫でてやる。まるで犬や猫の相手をしているかのようであった。虎はすっかり安心して目を細めている。それが禅僧沢庵のやり方だった。

 沢庵と宗矩。仏教者と剣術家……。二人の差は言わば水と火の差であろうと思います。一方はどこまでも対立し、力でもって相手をねじ伏せようとします。それに対して仏教者のやり方は、相手と融和するのです。対立ではなく、相手を包容するのです。

 いや、包容といっても、相手を自分のほうに包み込むのではなく、自分が相手の内に飛び込んで行き、自分と相手が一如になるのです。

 今の日本の教育の現場でこそ、この話を考えていただきたいと思います。子供達を力と権威でねじ伏せようとせず、子供達と一如(同化)になる……対立ではなく融和こそが教育の原点だと思うのです。


2017.11.01
本当の教育……怒りの心を捨てて

 今年の3月、福井県の公立中学校2年の男子生徒が、担任と副担任の教師からの、異常とも言える指導や執拗な叱責に追いつめられて、校舎から飛び降り自殺をしたという何とも言いようのない悲惨な事件の報道が、半年以上を過ぎて全国を駆けめぐりました。およそ教育とは無縁な上からの威圧的な行動により、この先無限の希望と可能性を有していたであろう若い命が断たれたことを思うと、同じ年頃の孫を持つ身にとって胸の張り裂ける思いです。

 しかも事件発覚の後に記者会見で弁明していた校長の、他人事のような無責任極まる態度には怒りを通り越して、これが真の教育者なのかと、あきれる外ありませんでした。

 曹洞宗大本山総持寺御開山の瑩山禅師様は、曹洞宗の宗祖として道元禅師様と並び称され、宗門の私たちは『太祖さま』と呼んで慕っています。

 瑩山禅師の母親は、長い間子宝に恵まれず、どうしても子供が欲しいと、日夜観音様に願を掛けていました。そのかいあって、彼女が三十七歳の時に生まれたのが、幼名行生、後の瑩山禅師様でした。

 だから彼女は、常々我が子に言って聞かせていたそうです。

 「そなたは観音様の申し子です。だから観音様のように、慈悲深い人になって欲しい」と。

 そんな母親の願いもあって、彼はわずか八歳で出家し、厳しい命がけの修行の日々に入りました。

 十八歳となって瑩山と名乗るようになった彼は、福井県の宝慶寺という修行道場で、雲水の指導に当たる維那(いの)という役を務めていました。

 ある日彼は、坐禅を怠けて別室に隠れて昼寝をしている雲水を見つけました。

 瑩山はかカッとなり、「皆が真剣に坐禅をしているのに、自分だけこっそり昼寝をしているのは何事ぞ。その怠け心が許せぬ。この瑩山が叩き直してやる……」と、警策(きょうさく=怠けや眠気を戒めるため肩を打つ棒)を振り上げました。

 その時、彼の耳に母の声がしたのです。

 「いかに自分が正しくとも、怒りに任せて自分を見失ってはなりません。そなたは観音様の子なのです。観音様の如く、優しい慈悲の心で人々を導いてくだされ…と頼んだこの母の願いをお忘れですか?」

 瑩山は思わずその場に警策をとり落としてしまいました。

 彼は自分の短気を深く反省し、その後は見違えるような柔和な、誰にでも慕われる僧になりました。

 私はこの話を、学校の先生方に知って欲しいのです。曹洞宗(禅宗)では、雲水達の指導に警策を使うことが許されています。しかし瑩山禅師様は、それを使うことを恥じられたのです、ましてや「学校教育」においては一切の体罰が禁じられています。学校の先生が子供達に暴力を(言葉の暴力も含めて)加えて良いわけがありません。周りの生徒が身震いするほどの大声による叱責が、まっとうな教育の方法だと思っているのであれば、それはむしろ無神経で無能な教育者というべきです。

 怒りの心でもって教育は出来ない。たとえその怒りが正義の怒りであっても、怒りは怒りである。教育の場においては、全ての怒りが否定されているのだということを、日本中の先生達にしっかりと心に刻んでおいて欲しいのです。

 

 


2017.10.05
芭蕉忌によせて

 私の最近好きなTV番組に、毎週木曜の夜7時から放映される「プレバト」というのがあります。特にゲストの芸能人が、与えられた「お題」を五七五に詠み、その一つ一つに有名俳人の夏井いつき先生が舌鋒鋭く批評を下し、ランク付けをする俳句の査定コーナーをとても面白く観ています。

 私も試みに頭の中で捻ってみるのですが、残念ながら歳時記の知識不足と、語彙不足とでなかなかうまくいきません。

 ところで陰暦十月十二日は、俳聖松尾芭蕉が元禄七年に亡くなった日です。そこで、芭蕉の残した偉大な思想の一端を、仏教と照らし合わせて考えてみたいと思います。

 芭蕉の有名な紀行文『奥の細道』に、 「月日は百代の過客にして往きかう人も、また旅人なり」という一文があります。歳月は幾百年も停まることなどなく、私たちの毎日の生活や街の往来も、みな旅人のように、流れるがまま過ぎていくことを言い得た、無常観を表す名文です。

 「諸行無常」を掲げる、仏教の思想そのものであることは言うまでもないのですが、芭蕉の芸術の優れた点は、この無常観と「わび、さびの思想」を、一体の境地にまで高めた点にあります。芭蕉の無常観をはっきりと示しているのは「捨てる」という行いです。あっという間に過ぎていく時間の中で、言葉を選びに選び抜き、捨て去るところから、五・七・五という短く、凝縮された言葉に、深い意味合いを与えるのです。これは、世間のありとあらゆる塵芥(ちりあくた)をふるい落とし、一粒の宝石を拾い上げることにも似て、なかなか困難な修行といえましょう。その意味でも私は、テレビの中で、芸能人が詠んだ俳句を縦横無尽に添削し、名句に仕上げて成る程と唸らせてくれる夏井先生に尊敬の念を憶えるのです。

 現実の私たちの生活に、話を戻してみます。毎日の生活の中で、私たちは多くの言葉を喋ります。多くの動作を行います。しかしその中で、本当に実のある言葉を、どのくらい話しているでしょう。他人のためになる行いを、どれだけしているでしょう。私たちに与えられた時間には、限りがあります。実のある有益な言葉や行いによって、私たちの心は清められていくはずです。

 芭蕉忌に因み、芭蕉の無常観の思想を学び取って、一つ一つの言葉や行いを、心を込めたものにしたいものです。


2017.09.01
「老い」に思う。

  歳をとると増えていくもの……シミ、シワ、シラガ、シンサツケン。

 歳をとると減っていくもの……キリョク、タイリョク、キオクリョク、ジュミョウ。

 きつい冗談だとお思いでしょうが、これもまた現実です。残念ながら現代社会では「老い」を、人間にとってマイナスの「良くない」イメージとして捉えられているように思います。

 去る7月18日、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が、各界から惜しまれつつ105才でお亡くなりになりました。先生は敬虔なクリスチャンとして、若い頃から全ての患者に分け隔て無く接し、あのオウムのサリン事件の時は、多くの被害者を積極的に受け入れ、あたかも野戦病院の様相だったそうです。又全国各地に講演に赴かれ、多くの国民に感銘と生きる勇気を与えられ、ついには文化勲章を授与され、100才を過ぎてもなお現役でのご活躍でした。葬儀には医療関係者だけでなく、政界、官界、文化人、マスコミ、一般等各界から4,000人あまりが参列し、先生の死を悼みました。

 先生は常日頃「人間は老いると創(はじ)めることをしなくなる。老いとはこの体全体が、経験という宝が詰まった蔵のようなもの。その宝を大いに活用し、老いてもなお創造的な関わりを暮らしの中に持つことが、充実したプラスの人生にする秘訣」とおっしゃっていました。

 今月は「敬老の日」があります。

 お釈迦様は、「老い」は死に至る前の段階であり、誰もが力衰え、毛髪は抜け落ち白くなり、美しいとは言い難い姿となり、老いの苦しみを感じるようにななるのはなぜなのか、と言う疑問を探求しました。その結果「生あるが故に老死あり。老死は、生の縁のあるが故にあり」と悟られたのです。つまり私たちが、この世に生命(いのち)を受けた縁によって、老いること、死にゆくことの苦しみが生じるのだと、明らかにされたのです。

 ですから、「敬老」とは老人を若い人たちが敬うと言うことだけではなく、老いた人自身それぞれが生命をこの世に頂戴でき、さまざまな体験を経て、老いを迎えられたという自分の「老い」に畏敬の念を払い、命を大切にし、社会に何かしら働きかける創意を持つこと……このことが自分の中からも、他者からも「老いを敬う」ことにつながるのだと思います。

 改めてお釈迦様の教えを、日野原先生から教わったような思いです。

 

 


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